海に沈んだ船を引き上げる意味
海難事故により沈んだ船を引き上げるという行為は、事故の物的証拠である船体を確認する為にも必要不可欠なことです。
引き上げる方法はケースバイケースで、現場の状況に合わせた方法が採用されますが、過去の引き上げ事例を確認することで見えてくる未来もあります。
過去の引き上げ事例を確認する前に最低限知っておきたいことをいくつか押さえておきましょう。
総トン数と排水トン数
ーーー 船体を海の底から引き上げる ーーー
通常の状態であれば海に浮かんでいる船体を海底から何らかの吊具を使用して吊上げるということは簡単では無い。海に浮かんでいるからそんなに重たくないのでは?と思われる方もいるかもしれませんが、そんなことはありません。例えば、下の画像の船の重量はどのくらいだと想像しますか?船体寸法は全長65m、幅15m。
答えは1,330トン(満船時)。空船時でも1,000トン以上あります。
この船の重量1,330トンのことを排水トン数と言います。
ちなみにこの船の総トン数は942トン。あまり船の事を知らない方は間違えてしまいますが、総トン数は船の重さではありません。
船舶検査証に総トン数の記載はありますが、船体の重量を表す排水トン数の表記は無い。総トン数は重量ではなく容積を表しており、軍艦以外の一般的な船舶の大きさを表すトン数は総トン数のことを指しています。
乗用車を吊上げることを想像してみよう
例えば船ではなく、乗用車をクレーンで吊上げなければならない場合、どうやって吊上げますか?
いろんな方法があると思いますが、思い付き易いのは車体の下に吊具を通して吊上げる方法。吊上げるのは可能かもしれませんが、吊具にかかる車の重量で車体を損傷してしまう恐れがあります。通常の状態だと車はタイヤで車体重量を支えているので、タイヤ以外の部分に車体重量がかかると凹んだり破損する可能性が高い。最悪の場合は、吊具が滑って吊り上げた車がバランスを崩して落下するかもしれません。
したがって、タイヤに重量がかかるような状態で吊上げる事が出来れば車体の損傷を抑える事が出来るという事になります。例えば下の画像のような吊り方。
強固な鋼材の上に車を載せて鋼材を吊上げる方法。車の強度に依存することなく、安全に車を吊上げる事が出来ます。
船を引き上げる場合も同じように、船体を損傷することなく安全な方法で吊上げる必要があります。何か別の強固なものに載せて船体を吊上げるという方法は「セウォル号」引き上げの時にも採用されました。
過去の引き上げ事例
これまでに引き上げが実際行われた事例を5つ紹介。
九州南西海域工作船事件の工作船引き上げ(水深90m)
2001年12月22日、東シナ海で日本の海上保安庁の巡視船と交戦の末に爆発、沈没した北朝鮮の工作船引き揚げについて。
沈没位置は水深90mの海底。工作船の大きさは全長約30m、幅約5m、深さ2.3m、総トン数44トン。重量は約55トン。
この作業の流れに関して海上保安資料館横浜館がYoutubeで動画を作成していますので見ると分かり易いです。
沈没位置の特定
船体の引き上げに先立ち、沈没位置を特定する為、海上保安庁の測量船「海洋」を使用。搭載機器のサイドスキャンソナーで沈没位置のあたりを付け、巡視船「いず」のROV(自航式水中カメラ)で沈没船を発見し、位置を特定することに成功。
船体状況の調査
船体の詳細状況を調査する為、有人潜水艇、大気圧潜水服、潜水支援船などを使用。
使用された有人潜水艇「はくよう」の潜航最高深度は300m。搭乗人員は通常2名(最大3名可能)。マニピュレータと呼ばれる耐圧殻内からパイロットが遠隔操作するロボットハンドを使用して工作船付近に散乱する様々なものを回収。
大気圧潜水服とは、深海を潜水するために身に着ける潜水用具で水圧の影響を受けないよう硬くて機密性のある全身を覆う形状をしている。そのままの状態で潜れるため、特別な混合ガスは必要ない。デメリットは、関節部の自由度が低く重いので行動には制限がかかり、使用環境の温度などの問題も受ける。大気圧潜水服にもマニピュレータが付いており海底から様々なものを回収する事が可能。
引き上げ方法の選定
各事項について検討し、引き上げ方法を決定。
- 船型の仮定
- 吊り上げ重量及び重量分布の推定
- 船体強度の推定
- 油流出への対応
その他の調整事項として、沈没位置が東シナ海にある日中中間線よりも中国側に位置し、中国のEEZとして扱っている海域であったため、中国政府との調整が必要であった。
引き上げ
2002年6月25日、現場海域にクレーン船が到着し引き上げ作業が開始された。
しかし、荒天と台風の影響により予定は大きく遅延していく。
結果として、2002年9月11日に引き上げ完了となるが、その間の作業稼働日は23日、作業中止日は55日だった。
肝心な引き上げ方法は、船底をワイヤーで吊上げる方法。
この方法だと吊り上げた後に船体のバランスが崩れたり、引き上げ中の潮流の影響でワイヤーが滑り、船体が落下する可能性がありますが、その辺の対策もされています。
出典:海上保安資料館横浜館
出典:海上保安資料館横浜館
出典:海上保安資料館横浜館
引き上げに使用されたクレーン船
引き上げ作業を行うこの画像を見て何か気付きますか?
クレーンのフックブロックが見えないので海中に沈んでいます。
水深90mから工作船を引き上げるための揚程を確保するにはフックブロックを水中に沈むほどに下げてから吊り上げる必要があった。通常のクレーンで使用されている主巻ワイヤーは海中に下げれるほど長くはないと思われるので、船体重量がクレーン能力と比べ軽いことからフックブロックへの巻掛け数を減らしてワイヤー長を確保しているのかもしれません。
それと、大前提としてフックブロックを海中に沈めるという行為は普通しないので発想としてスゴイなと思いました。
船体には深田サルベージ建設の社名がありますが、実際は吉田組の1,700トン吊りクレーン船「第60吉田号」。現在は中国に売船されて「德瀛(De Ying)」という船名になっています。
「セウォル号」引き上げ(水深44m)
2014年4月14日、韓国の仁川港から済州島へ向かっていた大型旅客船「セウォル号(世越、SEWOL)」が全羅南道珍島郡の観梅島(クァンメド)沖海上で転覆・沈没した事故。
沈没位置は水深44mの海底。セウォル号の大きさは全長146.61m、幅22.2m、総トン数6,825トン。重量は不明な部分がありますが、引き上げ時の鋼材を含めて14,592トンと言われています。
引き上げ方法
全長146mの船体を分割せずに一括で引き上げる作業は前例が無く、非常に困難なプロジェクトだったようです。
採用されたのは、台船2隻で海底のセウォル号を挟み込むように係留し、事前に海底を掘削しながら設置した吊上げ用架台(lifting beams)33本に甲板上からワイヤーをセットして引き上げるという方法。
強度的に信頼できる吊上げ用架台なので設置できれば安心ですが、設置作業に長い時間を費やしたようです。
引き上げ後に、台船より大きな半潜水台船をセウォル号の下に配置して搭載。陸揚げする岸壁へ運搬。
岸壁への陸揚げは自走式多軸台車(SPMT)と呼ばれる重量物運搬特殊車両を使用。最大積載重量20トン~60トンのSPMTを480台も使ったそうです。
引き上げに使用された作業船
使用されたのは主にクレーン船、潜水支援船、半潜水式重量物運搬船など
「南海一号」引き上げ(水深20m)
中国広東省陽江市沖の南シナ海で約800年前の南宋時代に沈んだとされる沈没船「南海1号」の引き上げについて。
沈没位置は水深約20mでしたが、船体は海底の泥に深く埋もれている状態。「南海1号」の大きさは全長30.5m、幅9.3m。
船体は原型を保ったまま沈んでおり、保存状態も良好であったが、800年前の木造船に船体強度は期待できない。では、どのような方法で吊り上げをおこなったのか?
引き上げ方法
船体破損防止のため、海底の泥に埋まった状態のままコンテナに収めて、海底の泥と船体を一括で引き上げるという方法が採用された。
コンテナを引き上げた時の重量は3,400トン。
4,000トン吊りのクレーン船「华天龙」を使用してコンテナを吊り上げて、半潜水バージに搭載。
引き上げに使用されたクレーン船
4,000トン吊りのクレーン船「华天龙」
| 吊上能力 | 4,000トン吊 |
| 長さ | 175.0m |
| 幅 | 48.0m |
| 深さ | 16.5m |
| 建造年 | 2007年 |
| 所有会社 | Guangzhou Salvage |
「光進丸」引き上げ(海面付近)
2018年4月1日、静岡県の安良里漁港から20~30メートル沖合で停泊中に出火、ほぼ全焼し3日後に転覆した「光進丸」の引き上げについて。
船体は沈没せず、転覆した状態。「光進丸」の大きさは全長25.6m、幅6.61m、総トン数104トン。重量は不明。
この「光進丸」は俳優で歌手の加山雄三さんが事実上のオーナーとして知られていたプレジャーボート。
船体は沈んでいませんが、火災による損傷で船体強度が低下している可能性があり、安全に吊り上げて撤去するため、慎重な引き上げ方法が採用されました。
引き上げ方法
引き上げ方法は、「光進丸」の下に鋼製の架台を配置。その架台を吊り上げて光進丸を引き上げるという方法。
引き上げ作業を行ったのは500トン吊りクレーン船「第50幸神丸」(堀田建設㈱所有:本社 愛媛県八幡浜市)
引き上げに使用されたクレーン船
500トン吊りクレーン船「第50幸神丸」
| 吊上能力 | 500トン吊 |
| 長さ | 70.0m |
| 幅 | 24.0m |
| 深さ | 4.5m |
| スパッド長さ | 25.0m |
| 建造年 | 1998年 |
| 所有会社 | 堀田建設株式会社 |
「F-35C」引き上げ(水深3,800m)
2022年1月24日、南シナ海を航海中の空母「USSカール・ヴィンソン」甲板へ着艦を試みた「F-35CライトニングII」が失敗し、海に落ちた機体の引き上げについて。
沈没位置は水深3,800mの海底。「F-35CライトニングII」の大きさは全長15.7m、翼幅13.1m、高さ4.48m。重さは、空虚機体重量15.7トン、最大離着重量31.8トン。燃料や搭載しているミサイルによって重量が大きく変わります。
引き上げ方法
水深3,800mの海底から機体を回収するため、アメリカ海軍は「CURV21」と呼ばれる海中無人探査機を使用。海底で専用の索具などを取り付け、水面まで引き上げ。潜水支援船「Picasso」のクレーンで機体の回収を行った。
海中無人探査機「CURV21」は水深6,000mまで使用可能。
引き上げに使用された潜水支援船
潜水支援船「Picasso」
| 長さ | 120m |
| 幅 | 25m |
| 総トン数 | 11,117トン |
| 建造年 | 2018年 |

